ハリウッド版『君の名は』を妄想する
題名の通りだ。
三十路手前の人間がただ妄想する。
先日、JJエイブラムス氏をプロデューサーとしてハリウッド化されることが発表された長編アニメーション『君の名は』を妄想する。
ちなみにJJエイブラムスとはあまちゃんを手掛けた人ではない。じぇじぇじぇ違いである。「じぇ」がふたつだからそんなに驚いてないとかではない。
「じぇ」がひとつ増えることによって感嘆表現としてのグレードが上がるとかそんな理屈は存在する。
あまちゃんはクドカンである。クドカンは天才である。クドカンとは、宮藤官九郎のことであり、西武、巨人、ソフトバンクに在籍しその3球団で日本シリーズを制覇していることから優勝請負人と呼ばれた工藤公康監督のことではない。選手のみならず監督としてもパ・リーグ優勝を果たしてしまうとは流石とか言いようがない。
いつまで続けるんだと思っている人もいるだろうからそろそろ本題に入ろうと思うがその前にひとつ。
こうして脈絡のない事柄を並べたのも訳がある。
「全てのことに意味がある」とどこかの偉い人は言った。
もうすでにお気づきの方も多いだろうが、全体を通してこのブログ軽薄である。
高度な文明の言葉など出てこないし、コンテクストなんてコンテストの親戚?くらいに思っている人間が書いている。
よって文脈的背景や理屈なんてないものと思ってほしい。
『空想科学読本』なんてよく分からないのに『空想科学読本はここがおかしい!』なんて言われてもいよいよよく分からない人間である。
そしてもし、もしこの先にこの軽薄さからの跳躍を期待する人がいるなら、これ以上先へと読み進めることはお勧めしない。
なぜなら深淵の底の底まで軽薄だからである。
「深淵をのぞくとき、おまえもまた深淵にのぞかれているのだ」
これはニーチェの言葉だが、この意味は深淵を覗くときに自然とそれに近づいている己がいる。よっておまえも深淵に取り込まれないように自分を制せ、というようなことらしい。
全く都合良くこの言葉を用いると、これより先には自らで軽薄さを制することの出来る人のみ読み進めてほしい。それは決して、程度の低い妄想に「無知だ」「馬鹿じゃないのか」などと口撃されることを恐れるあまり予防線を張っているのでない。ない、決して。。
さて、それでは妄想をはじめよう。
まずはJJエイブラムス氏の簡単な紹介から。
JJエイブラムス氏とは、TVドラマ「LOST」の大ヒットにはじまり、新生『スターウォーズ』や『スタートレック』シリーズ等々の監督・プロデューサーとして活躍しているSF大好きな売れっ子ヒットメイカーである。他にもたくさんあり詳しくはWikipediaにて確認してほしいが、耳にしたことのある作品が多いのではないかと思う。
※SF大好きっ子な自身へSFの面白さを教えてくれたスピルバーグ監督に感謝を込めて過去作品へのオマージュをふんだんに盛り込み製作したのが『スーパー8』である
さて、いくつかの映画監督にはお決まりの演出方法というものが存在する。
例えば、ジョン・ウー監督の作品ではそれが地下であろうと、どこからともなくハトが出てきてスローモーションが始まるように、JJエイブラムス監督にも代表的な演出方法、レンズフレアという必殺技が存在する。胸が熱くなるシーンでは燃える炎のようなレンズフレアが画面いっぱいに姿を現し、ミステリアスなシーンではぎらりと眼光のようなレンズフレアが隅の方に出現したりする。
『君の名は』にもレンズフレア演出があり、これを見た瞬間に「俺なら撮れる!!」とエイブラムスは思ったに違いない。
『君の名は』の物語本編について触れていく。
念の為、あらすじを説明する。
東京に住む高校生(瀧くん)と飛騨に住む高校生(三葉ちゃん)が入れ替わり立ち替わりしながら物語が進んでいく入れ替わり系青春群像劇である。
いつの間にか入れ替わっており、入れ替わられているときの記憶はないがその辺は何やかんやで気付く。入れ替わりに気付いたことでふたりのその特殊な交流は始まり、文字通り内側から人となりを知っていくうちにふたりは自然と惹かれあう。しかし、そこには思わぬ隔たりと入れ替わりの理由が……。という話である。
この話、入れ替わる時点でスピリチュアルな話だがさらに三葉ちゃんの「宮水家」は代々続く宮水神社の巫女だ。
大きく窪んだお椀型の大地の中心に広がる湖を囲うように家々が並ぶ小さな田舎町、糸守町を古くから見守ってきた神社である。脈々と受け継がれてきた神事が物語の中核を担う。そうした歴史の語り部が三葉ちゃんの祖母、一葉さんであり、この人キーパーソンである。
また加えて、本作のキーとなるのは非常に印象的な劇中歌だ。物語の途中からミュージックビデオが始まったんじゃないかと思うくらい存在感がある。
空を駆ける彗星や広大な美しい大地、都会のビル群が引きで映し出されたらそれははじまりのファンファーレと同じ意味である。一見、無機質なビル群を空と太陽が軽快なイントロに乗せて早巻きで夜の都会へと姿を変えるシーンは印象的である。
「都会を飾る真夜中の明かり
あれは残業の景色なんだよと
君は眠そうに眼を擦りながら
独り言のように呟いてる」
これはスズモクの曲の一節である。本作とは特に全く全然関係ないがただ都会の夜景を見ると条件反射的に必ず思い出すくらい頭に刷り込まれているので紹介する。
良かったら貴方も頭に刷り込んでほしい。
The wonderful world(素晴らしい世界)/ song by suzumoku(スズモク) - YouTube
脱線したので話を戻す。
引きの絵から歌が説明的な役割を担い、物語がしばらく進む。美しい映像と鮮烈な歌に魅了された人も多いのではないだろうか。
威勢よく言わせてもらえば、それは製作者の思うつぼというやつである。
思うつぼとは、思惑のある人の思い通りに何かに嵌るというような意味だと思うが、待てよ、よくよく考えてみたら日本語としてよくわからない、
それであったら略さず思うつぼに嵌った、であるしそもそもつぼなんてほとんどの人は持っていないしもっと身近なもので表現すべきではないだろうか。
例えば、思う炬燵とか、思うマッサージチェアとかその方がよっぽど説得力がなかろうか。
私は、気づかぬうちに彼の思う炬燵だった。
どうだろう。少し気持ち悪くなった。
『人間椅子』的な何かを感じるし第一ややこしい。
これは失敗かもしれないが今回のケースに当てはめると
それは製作者の思う炬燵というやつである。
あれ、かなりしっくりくる。意図も伝わってくるし、何なら、穏やかなユートピアが広がっている感じさえする。良いのでは、これ汎用性あるのでは。
こうなるといよいよ「思うつぼ」というのは不思議な言葉である。ねずみ講でつぼを買わされるだとか、美人局でつぼを買わされそうになっただとか、ほとんど「怪しい」と同義語で使われる「つぼ」だが、反対にいい意味で使われているところなんて見たことがない。「幸せになるつぼ」とかもう幸せの最極端をいくような雰囲気さえある。どんな因果があってつぼはこんな不信感を体得したのだろうか、歴史に数多の怨念と悲しみを背負わされるようなことがあったのかと思うと、何も考えずに使ってしまっていたことに慚愧を感じる。
なんでも鑑定団につぼを持ったおっちゃんが出てきたら、視聴者の8割くらいは既に半笑いなんじゃないだろうか。全く因果なものである。
つぼについての幸せなエピソードがあればぜひ教えてほしい、つぼの名誉の為にも、パワープッシュしていく所存だ。
さて脱線したので話を戻す。思うつぼの意図についてだ。
公開後に新海誠監督は製作秘話を方々で話しているがこれらの曲は脚本をもとに作られ、曲にあわせて脚本を直す、それにあわせて曲を直す、という作業を繰り返したと説明している。また歌だけではなく、劇中におけるすべての曲をRADWIMPSが作成していることも特徴的だ。こうした緻密な計算によって成り立っていると知って率直に炬燵に入ってしまった。
新海誠監督、インタビュー記事。
ハリウッド版の発表があった際の新海誠監督のTwitterのつぶやきの「ドメスティックな技術」という言葉はこうした背景が一端にあるのだろう。
『君の名は。』ハリウッドでの実写映画化が決まりました。プロデュースはJJエイブラムスら。ローカルな想像力とドメスティックな技術で作った『君の名は。』がどう生まれ変わるのか、楽しみにしています。僕たちの新作映画も負けぬようがんばらねば。https://t.co/WO0O44BGia
— 新海誠 (@shinkaimakoto) 2017年9月28日
さて、ここまでを整理してそれがハリウッド版ではどうなるかを妄想する。
・入れ替わるティーンエイジャー
・土地の守り神的なMIKO
・キーパーソン 一葉
・歌の圧倒的存在感-strong presence-
・彗星的なSF感
これらがハリウッドというワールドワイドな舞台でどう変わるのか……
・入れ替わるティーンエイジャーが役者志望の高校生になる
歌が主体的な役割を担っている本作。
その点がハリウッドでどうなるか心配している方もいるかもしれない。
はっきり言おう、心配はいらない。
実は、歌を織り交ぜた作品は近年のヒット作にも多く見られる。
代表的なところだと『はじまりのうた』や『ラ・ラ・ランド』である。
そしてこれらに共通する点が主人公は芸の道を志し、芽がでない状態にあること。
つまり、それらの構造をまるごと転用して劇中歌は瀧くんや三葉ちゃん役の人たちに歌わせればいいのである。
不自然な点は全くないし、突然歌い出してもお洒落なミュージカル映画で説明が付く。
クライマックスの山頂のシーンで歌い出すのは少々奇妙を通り越して不気味な感じもするが、グランドキャニオンをバックにサンセットで決めれば有無を言わなさない説得力を持つだろう。
アメリカのティーンエイジャーは車の運転も可能なので、原作では飛騨まで列車移動だったがそこも最高のドライブムービーになっていることだろう。
・土地の守り神的なMIKOは敬虔なクリスチャンシンガーへ
皆さんは『天使にラブソングを』という映画をご存知だろうか。
ひょんなことから修道院のシスターとなった歌手が歌を通じて、お固い修道女たちの心を開き、ひいては聖歌を聴きにきた町中の人々に勇気や元気を与える感動の物語である。
そこで歌われる音楽は一般にゴスペルソングと呼ばれるものだ。
美しいハーモニーやコーラス、もともとは鬱屈とした自由度の低い環境下で音楽に歌声をのせることで救いの福音(ゴスペル)を得られることから生まれたもので、彼らには歌う文化があり、生活の清濁を歌にして分かち合ってきた。
三葉ちゃんは聖歌隊の一員となり、物語の惨劇がカットバックされる。
コーラスをキーに瀧君はラストダイブするというのもありだろう。
・キーパーソン 一葉は町の聖母へ
娘が敬虔なクリスチャンである以上、一葉はこうなる。彗星の代わりに教会に対立するギャングに一葉が殺され、それを救う物語もありだろう。
・歌の圧倒的存在感ーstrong presenceー
これもゴスペルで解決する。瀧君は、カントリーミュージックの歌い手となることで幅広い表現力を持った映画になるだろう。
・彗星的なSF感
JJエイブラムス氏はアルマゲドンの脚本も一部担当しているそうだ。
レンズフレアに隕石と、前前前世からどこまでも運命的な導きである。
さて、『君の名は』のハリウッド化について
(終盤は少々ガス欠気味だったが)
好き勝手ここまで述べ散らかしたがとにかく楽しみで仕方ない。
個人的にエンドロールはエアロスミスでお願いしたい。
では、完成まで気長に待とう。
最後までお読みいただきありがとうございました。